昭和45年8月28日 朝の御理解 30分
御理解第12節「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」 教祖様は、そのように神様を見ておいでられるわけですね、空を感じ、下を感じ。いわえる天地そのものを神と言っておられます。
そこでこのように教えて頂くから、そうだなぁと。そんなら天地が、神様だなぁと。なるほど、空が神だなぁ、下が神だなぁということを、実感出来る。本当にそれを神様と感じられる。
言うなら、神と見、神と感じる身と心を養って行くということが信心だということが分かる。教祖様が、ご覧になる神様というものは、いわえる、神に合いたいと思えば庭の口の外へ出て見よ。空が神じゃ、下が神じゃと。自分がそう頂いておいでおられ、同時にそう教えておられるわけなのです。
いわえる、お道の神観ですね。神を見る。そこで、なら、天地が神様だと、説明を聞かせて頂いただけでは、まぁ何にも、ただなら天地を拝むだけではいけません。
拝まなければおられない物、それを信心なのですから。拝まなければおられない物。そこにね、いわえる神と見、神と感じる目と心を養う。
いいですか、神をね、天地を神と見る。または、それを神と感じるその目と心を養う。お芝居などを見ますと、とくに、歌舞伎をを見ますと、男の役を女がいたしますね。おやまと言います。
あれは男性だと知っておっても、見ておって、男性を感じない。いわえる、むしろ女以上の女をそこに感ずる。それは、やはり芝居が好きであり、いわえる、主役の身後者というかね、後者になればなるほど、あれを男だけの者とは思わない。後者になれば、後者になるほど、それをやはり女と結局俳優の演戯ですけれどもね、男を感じない、女を感じる。それが歌舞伎であるおやまですね。
天地でも同じこと、天地が神様だと、教えられただけでは中々神様とは感じれません証拠に、いうなら、天地が人に見てござるというか、神様が見てござるということが分かっておっても、平気でなら神様の心に反するようなことをするでしょう。
それは理屈の上では分かっておっても心から天地を神様と思っていない証拠ですね。そこで、言うなら私共がなら、天地の通りとでも申しましょうかね、天地の御恩徳というても良いでしょう。いわえる、天地の中にある一つの働きというものをです、様々な角度から、まぁ研究をする、勉強をする。または、信心によってそこのところの体験をつんでいく。いわえる、それを信心とも、申します。または、法則というても良いでしょう。
天地観にそういう真理。天地の真理というものをいわえる、本当なことと言うのですよ。その本当なことを分かって行く。中々難しいことです。稽古しなければ分かることではありませんね。
天地の法則と言ってもですね、天地には天地の法則がある。決まりがある、というても、それを信じないから、天地の心に反する生き方を平気でする。それをもし、信じたら天地の法則に従った生き方をしなければおられないのであるね。
天地の法則に従って行くね、その天地の法則に従って行くということはね、天地を信じなければ出来ませんね。例えば人間の世界に警察法とか、または、税法とかというのがありましょうね。脱税などをしておりますと、それに違犯いたしますから、また、倍にも3倍にも問われてしまうような、いわえる、罰を蒙らなければなりません。警察法でもそうです。警察法を無視しておりますところにですね、いわえる、苦しい監獄行きがある、あるわけです。罰金があるわけですね。
それは、警察法を無視しているからです。そこで、人間が本当に幸せになるためにはですね、その天地の法則と、良い天地の中にある真実、真理というものをです、悟らせてもろうて。その真理に基づいた生き方。本当の生き方ね。それを教祖様は実意丁寧神信心とね。
実意に、いわば、その実意の限りを尽くして、生活の姿勢を作っておられる。本当なこととは思っておっても、より本当なことがあったら、そこのところを一つ改めて行く、行けれる信心ね。そういう私共が、言うなら、教えに基づいたね。
天地の心を心とした生き方。本当なことが分かって、本当なことを行じていき、法則。言わば、天地の中の法則をわきまえて、それに、そむかない。いわえる、警察法なら警察法に、そむかぬようにしていけば、警察は消して怖いものではない。そうですね。
脱税やらしているから、びくびくせにゃならん、そういうビクビクせんで済む生き方をですね、いわえる、安心の生活という。そういう安心の生活を目指しての信心。そういう信心が行の上に段々表れて来る。
日々の生活の中に、それが、取り組まれてくる。いわえる、何事にも信心になれよというのは、それなのですね。何事にも信心になる。そこから生まれてくるのが体験なんですね。そういう例えば稽古。そこからね、言うならば信心が好きになるね、お芝居を好きになる。見る目が違ってくる、見るところが違ってくる。
それで只今、おやまの例を言いましたが、後者になればなるほど、そこにいわえる、親場の演じんにです、女以上の女を感じて、恍惚として見ておられるね。私共が、そういう例えば、今私が申しましたような信心の稽古を、ただ参る、いわえる拝みよるというだけではダメなんです。
はぁ天地が神様じゃからというて、天地をいかに拝んだところではダメですね。そこのところの体験を積みながら、そこのところのいわば真理が分かり、法則が分かり、それに従って行く生き方というものがです。こんなにも有り難いものだと分かる。
芝居を段々見て行って、芝居というのはこんなに面白いもんだと言うことがいよいよ分かって行くようにです。信心も、このように楽しゅう、このように、有り難いものだと分かってくる。そこからね、神をいわえる、天地を神と見る目ができてくるわけですね。
または、神と感じる心が養われてくるわけです。天地そのものを神と見ね。天地その物を神と感じる、目と心を養う。今日はここのところに焦点をおいておきますから、ここのところを良く覚えておって下さいよ。
昨日、若先生が、青年会の方達が、幹部の『 (?) 』3人よって来ました。それで四時の御祈念が終わってから、あそこが涼しいから、そこらへんで、お茶でも頂かせてもらいながら、色々信心話をさせて頂きおったんですけれども。
中に若先生が言うことが、親先生最近の朝の御理解がもう大変難しい、もうちょっと、他の事も考えよったら、全然分からん。一生懸命頂きおっても、はぁ素晴らしいなぁ、素晴らしいなぁと思って頂くか。それが繰り返し頂かなければ、その有り難いところが分からん。
昔のように、もうお話を聞いただけで、誰でもが感動しよったような、あんなお話は出来んもんですかと。今の話は少し難しい過ぎますよと言うのです。なるほど、椛目時代は、この御理解、み教えを元にして、というても、このように正確な教えを元にしていなかったわけですね。
今は、もう一元一句間違いの無いように、その教典そのものもです、その中から、教祖の言うなら今日の御理解でもですね、神に会おうと思えば、庭の口へ外へ出て見よ。空が神、下が神と。たったそれだけの事の中に、今私がお話をしていることはもう大変なことなんですよ、実はね。
ただ天が、天地が神だと分かってなら天地を拝んだだけで、おかげを受けられるのではないということなのです。それを本当に神と見、神と感じれる目と心というものがですね、養わなければこれは、このようなことになってくるのです。
これが金光教の神観だと。説明だけは出来ます。なら、その神はどういうふうに、我々に働き掛けて下さるのか。どういうふうに、私共に、何を求めておられるかといったようなことをです、元に応じて、信心が出来なければ、答えが出てこない。
ですから、なるほど、これは合楽に、いわえる教会としてのここおかげを頂いてから、この方。全部その教典を元にしても日々のみ教えが頂けておりますから。その教典をづっと深めていっているわけです。だから例えばなら、今日の12節なら、12節だけでも、もう何十回頂いたか分からないのです。
ですから、なら御理解大12節というのをです、私はここでなら、3年間なら、3年間説いて来たことをづっと12節だけを集めますとね。大変な大きな御本が出来るでしょう。12節だけが。そして、金光教の信心はどうもしたたらずだと。金光教の信心はもっと足りないのだと。それは教団の中にもそれを平気で言う人達があるくらいです。
なるほど、表面に出ておるだけなら、足りないものを感じますけれどもね。なら、教祖のこのみ教えの深さに触れて参りますとです。それこそ、仏典にまたは、キリスト教の売文なっかに、ひってきするというのでは無いのです。もうそれこそ、キリストが、または、釈迦が説きえていないところが、金光教の教祖のみ教えにあるのですよ。ですから、大変なことなんですよ、実を言うたら。
ですから言うならそういうふうに、一つのなら12節なら12節でも、なら30ぺん聞いたから、30ぺんなんか違うでしょうが。というように、この一節からでもそのように大変な、今日私が言う、法則があり、真理がその中にひそまれているのですよ。
なら若先生が言う、なるほどぼんやりしておったんじゃ分からんね。ですから、皆さん一人一人教典を開いて、『(?)』を開いて、本当に速記していかれます。それをね、本当にもういっぺん噛み砕いて見るとか、もういっぺんみ教え頂いてみるとかしなければ、本当の分かるはずはありませんのですね。
だから、言うならそうでしょうが。椛目から、合楽を移して、二十何年間といういわえる信心の稽古をしてきているのですから、いつまでも幼稚園のごたる信心じゃいかんでしょう。少しは、頭をひらなければ、少しは心を本当にそこに向けなければ分からないというくらいな、いうなら、私が説いているこの言葉というのは、誰でもが分かるでしょうが。
中にはお年よりの方が、どうも親先生の話はぶんだかかていで、実を言うたら、文高いどころじゃない。私のは、『 (?) 』です、と自分では思います。そんな難しいことをしゃべるわけではありません。けれども、その内容はやはり難しいですね。
ですからやっぱり皆さん本気でね、やはりそれからというて、なら私が、なら椛目時代のような生き方にするというわけには参りません。これはもう、皆さんだけの賜物ではありません。もうそれこそ、金光教の言うならば千年の桂とでも申しましょうか。いつかは、合楽の私が説いていることを誰かが勉強したい、研究したいという人が出てくるに違いない。
今ここでも、教学の研究とか、御理解研究とかやっております、青年の方達が。そういう本格的になってまいります時にです、言わばもの言うてくる、私は日々み教えだと思いますから。これはただ、皆さんだけがおかげを受ければよいというのでは無い。これからは本当に金光教の信心を追求して、本当に分からせて頂こう、素晴らしい信心だというところまでですね、今後の信心を私は立派、いわえる完璧なものにしていくということは、これはやはり私共の責任。
例えば仏教なら仏教でもそうでしょう。今の真宗なら真宗ね。しんらい上人様というのは、なるほど偉いお方であった。けれども、そのしんらんの後を継いだ二代、三代が、四代が偉かったんです、やはり。そして言わば、お釈迦様の教えをしんらんが、言わば解説している。または、自分の体験から色んな仏法を説いている。
それを受けた弟子達が、またそれをいよいよ深いものにしていく、現在の今日の真宗があるわけですね。しんらいしゅうですよこれはね。
ようはですから、私共は教祖様のこのいわえる、この教典をですね、又は、金光大神覚書といったようなものを原点としてです、金光教の信心の深さ、広さというものを広げていき、深めていかなければならんのです。
とても私共は、金光大神覚書というものが今、教団に証明に出されておりますけれども、とてもとても、教典をこうやって、毎日毎日頂いている。これはつきることが無い、恐らく私は一生。他には手がだせんだろうと、それは思うぐらいに、言わばそのみ教えの深さにただただ驚いておりますね。
なら、今日のところでもそうです。これは教祖が感じられた神様。いわえる神観。いわえる、庭に出て見よ。空が神、下が神だとこぉおっしゃった。言うなら、教祖がおしゃっるから、天地を拝めれば良いという。もうその素朴、そういう素朴なだけの信心ではもう現代の人達には通用しないということ。
それで、その神を言わば神。天地を本当に神と感じれる、神と見れる、心と目が養うことをしなければ、そんな教えられたから、簡単に天地を拝めない。拝むということは、天地の心を心として、拝んで良いということにも繋がっておらなければなりませんがね。
ただ形の上だけで拝むだけでは誰でも出来る。どうでしょうか。そういうところにだから、現在の合楽で頂けれる御理解を頂いておられる方達は、もうそれこそ有り難いものを燃やして御理解を頂かなければいけないと思うね。
そこで、空が神、下が神とおっしゃられる天地、天地のことを言うておられる。ですから、その天地の心が、心として分からせてもろうたら、それこそ偉大というか、もう限りないというか。その天地の中のおかげをここにあずめてね、おかげをこんなに集める事が出来るほどしのおかげを頂いていくのがね、信心させてもろうて、お徳を受けていくということなのですね。
昨日、ある方から、こういうお届けがあった。今、○○さんから電話が私に掛かってきました。そちらの息子さんが、熱心に信心をなさる。ところが、この頃はもう合楽合楽というて、もう家の仕事も手がつかんようにある。そんなことじゃないと思うて、そんなに親さんには見えるんですよね。合楽、合楽と『(?)』全然言わなかった者が行くもんですから。毎日、毎日合楽通いをするもんですから、いかにも自分方の仕事が忙しく出来おらんように、信心の無い親達は思うわけですね。
だから、信心もね、消して悪いとは思わないと。だから、一つね、お参りも少しいいかげんにしてですよ。まぁ10ぺん参るなら、半分の5へんにして、少し家の方の仕事をね、身を入れるように、あなたから言うて下さらんかという電話がかかって来た。
だから、本当に例えば、信心をさせて頂く、家の仕事をほうたらかしてから、信心、信心ということは、これはほめたことではありませんがね。
それこそ頂いたみ教えが、そのまま生活に仕事の上に表されていくところに、本当の信心の素晴らしさがある。いわえる家業の行という値打ちがあるのですから。けれども、全然信心の無い両親は、ただここで通うてくるというだけで、それだけ仕事が疎かになっておるというような見方をするわけなんですね。それである人をかいして、私に言うてくれと、こぉ言うわけなんです。
なるほどそうね、けれども私はもうこれはもう絶対ですから、あなた方が、どげん私に頼みなさったちゃ、人間心で、誰さんにどう言うということは絶対言いませんからね。どこまでもやはり取次ぎ者としてのね、いわえるね、先生に頼んでからこげん言うてもらうとか、あげんしてくれとかね。そげなんことしおって、そげなん事ではねおかげにならんのです。ですから、私に頼まれたからというて、言おうとも思いませんでしたけれどです、しかし、神様にお願いをしなければならんね。
やはり両親も、その人の信心を認めてくれなければ、又引いては、両親自身も信心になるくらいなです、おかげを頂いてもらわなければならんと思うから、私はそれをお願いさせてもらいおりましたらね、かぼちゃを頂いた、御心眼に。
私はもう昨日それを頂いてから、思いましたことはですね、もう本当に教えの限りない深さには驚いてしまいましたね。
ここでは、かぼちゃのお知らせは馬鹿と阿呆で道を開けと頂いておりますね。福岡教会初代教会長のいわえる信心であり、またその流れをくむ私共もだから、その馬鹿と阿呆になることに本気で精進させて頂く。いわえるおかげ、それこそ天地の中にあるおかげをですね、そこぬけたような、そのほどしの素晴らしいおかげを無尽蔵に限りなく、もう限りなく頂きたい。ためには、一つ馬鹿と阿呆になれ。
四神様がおしゃっておられるように、大海には鯨が住もうがとね。たけのついに、水がたまったような信心をするから、ぼうふらが湧くようなおかげしか頂かれんのだ。大海のような信心をせよ。大海には鯨が住もうがと。鯨が住むほどしのおかげを受けられるためにですね、馬鹿と阿呆。
いや、もうそこがぬけたようにね、どんなことが言われても、あっても、それを気にならないぐらいのです。そこを抜けた、本当の意味においての馬鹿と阿呆にならせて頂くところから、もうそこが無いのですから。
その変わり、かえるということも限りが無い。『(?)』いわえる、無尽蔵のおかげの徳とでも申しましょうか。そういうおかげが頂けれるために、お互いが馬鹿と阿呆にならなければならん、馬鹿と阿呆にならなければいかん、というわけなんですね。それも頂いた。
ところがです、私昨日そのことをお取次ぎをさせて頂いてから、かぼちゃのお知らせを頂いて思うたことはですね、例えば、信心に夢中になる。いわえる、それを人はもう、内の息子は、これは金光様にぼうけたじゃなかろうかということになるわけですね。
『(?)』でも、あぁあそこはもう金光様と言い。もう一家で、もう金光様のことならもうそれこそ、何もかもなかと。いや金光様きちがいと言われるような時代。いわえる信心に夢中になることはいよいよね、馬鹿と阿呆になる元が出来ておるのであるという。だから、みなさん、馬鹿と阿呆になる。馬鹿と阿呆になると言うけどですね、ただ辛抱して、馬鹿になっておけば良いのではダメだということ。
その馬鹿と阿呆になるその一つの元というのはね、いっぺんぼうけて見れという事なんですね。私共もそうだったでしょうが。『 (?) 』と色んな非難もごうごうとしてあった。いや両親ですら、家内ですら、もうちょっとあんたの言わば、信心にはついていけないと。親達も言いましたでしょうね。いわえる、ぼうけきっておったわけです。私にとっては、もう両親はもう、そこれそこの世に掛け買の無い大事な者、大切な者だと。愛するというなら、お前ぐらい世界中で愛している者はおらんけれどもです。
お前がどげん言うたって、両親がどんなに言われてもです、どうしても神様のごしいんには背かれぬという生き方なのです。いわえるぼうけておったね。
人はそれをぼうけとると、こぉ言う。ずいぶんあっちこっちから、注意、忠告も受けましたね。けれどもね、ならその言わば、そうして信心に夢中になって一生懸命になっておるときにです、本当の意味においての馬鹿と阿呆。大きなおかげの受け物の基礎が出来ておったということです。
なまじっかの信心で馬鹿と阿呆になれるとは、絶対に思われないことを、昨日改めて私は分からせてもらった。素晴らしいでしょうが。ぼうけにゃいけませんよ。これは、その人にいらんこつどん言う、言うならば、言うことじゃないなぁと思わせて頂いて。
お互いが一つ本当に、限りが無いほどしのおかげの受け物を受けるために、やはり馬鹿と阿呆に、と人からは、言われたり、思われたりするぐらいなぁ。
そげんあんた、熱心、熱中せんで、と言われるようなです、ところを通るということが尊いことだ。それが、馬鹿と阿呆になる、なれる元が出来ているという事は、大きなおかげの受け物の元が、受けているということになるのですね。
大変な、真剣にして参りますとですね、今日の御理解は、いわえる、御理解12節のただ簡単な、これだけのことが、今日は私が、今皆さんにも聞いて頂いたような、その内容もここの中にあるということですね。
だから、神に会おうと思えば、庭の口を外へ出てみよ。空が神、下が神ということは、観念的に分かりきると思う。
それを神の働きとしてですね、神の心としてです、それを見たり、聞いたり出来れるためにはです。私自身が様々な言うなら、ここで言われておる、神様を大事にするというても、成り行きを大事にしなかったら、神様を大事にするとはいえない。
神様の働きそのものを大事にせよというような生き方がです、いかに、神様をそこに見ることが出来、感じることが出来る、一つの修行であるかということが分かりましょう。 そしてなるほど、天地が神だということが分かるね。外に出てみよ。空が神、下が神と。本当に『(?)』教えちゃない、言葉には。けれども、なら今日の御理解を頂きますと、そのようなあり方。または信心修行から、言わば、それを本当に神と見、または神と感じる目と心が養われてくる。
そこに、日々を神の中を分けて通りおるようなものじゃという実感をもった、日々有り難い、勿体無いの生活が出来るわけですね。
※『(?)』聞き取れない言葉が、8個あります。
末永あい